PROFILE
プロフィール
- 名前渡邉 りょう(ワタナベ リョウ)
- 生年月日1996/10/25(27歳)
- 出身地東京都
- 身長/体重179cm / 71kg
- ポジションFW
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
東京都渋谷区で生まれ、育ちました。外で遊ぶのが好きで、小学校の休み時間も校庭に出てずっと動いているような子どもでした。サッカーを始めたのは小学1年の4月です。保育園から一緒だった子が先にサッカーを始めて、その子に付いていったらめちゃめちゃ面白くて、勝手にスクールに入り、帰って親に事後報告しました(笑)。渋谷セントラルというスクールです。ここで出会ったコーチの影響は大きかったですね。勝つことにこだわるより、サッカーを楽しむことを第一に指導してくれました。そのおかげで、サッカーを楽しみながら6年間、続けられました。レベル的にはそこまで高くなかったですが、試合にはずっと出ていました。チームの中ではうまい方でしたが、今、ブラウブリッツ秋田にいる諸岡(裕人)選手が同じ地域にいて、彼は凄かったですね。小学生の頃から今のような体格で、無双していました。僕は当時は標準で、中学生で一気に身長が伸びました。サッカーを始めたときからポジションはFWでしたが、最初はGKもやっていました。ボールを取ってそのまま攻め上がってシュートしていたので、コーチによく怒られていました(笑)。小3くらいで、どっちでやるか決めることになり、FWを選びました。点を取る気持ち良さが一番だったので。小学生時代はFC東京のスクールにも通っていました。トップチームの試合を見にいったりもしていました。J1デビュー戦がFC東京だったので、縁を感じましたね(笑)。ここで決めていれば最高でしたが、まだ自分の力が足りませんでした。もっと頑張らないといけない、と思いました。
-中学~大学-
中学では、渋谷区立代々木中学校のサッカー部に入りました。渋谷セントラルの選手が大体行く中学校で、先輩も渋谷セントラル出身の選手が多かったので、僕も進学しました。ここの監督は、「お前らがどこまでやりたいのか、勝ちたいのか」ということを基準に練習させてくれた方でした。「サッカーで上にいきたい」という選手も多かったので、「どうしたら勝てるか」ということを真剣に話し合って、選手たちで考えながらサッカーしていました。ただ、そんな簡単に勝てるモノではなく、地区大会まで行ければいいというレベルでした。都大会にはなかなか届かず、レベルとしてはそこまで高くない中、みんなで上を目指して一生懸命、頑張っていました。小学校時代に比べれば練習にキツさはありましたが、サッカーの楽しさは小学生の頃から変わらなかったです。今でもそうですが、「もっと成長したい。もっとうまくなりたい」という情熱が変わることはありません。入部してすぐ試合にも出させてもらいました。中1の頃はまだ背も小さかったので、サイドハーフもやっていました。
高校は、品川区にある高輪高校に進みます。保育園から友達のお父さんがこの高校のサッカー部のトレーナーをやっていて、その縁でサッカー推薦として入ることになりました。中高一貫の学校で、高校から入る外部の子はスポーツ推薦です。もちろん受験もして入りました。中3では結構、勉強もしていたんです(笑)。高校時代は膝の手術を2回して、自分が思い描いていた3年間ではありませんでした。監督には、高1、高2はずっと怒られていました。良くも悪くもプレー中に感情を出すタイプで、ムラがあり過ぎて…。生活態度も含めて怒られることが多かったです(苦笑)。高3でキャプテンになって、そこから変わっていきました。ただ、先ほども言ったようにケガも多く、最後の選手権予選も万全な状態では臨めませんでした。選手権予選は2年のとき、ベスト8まで勝ち進みました。ただ、レベルとしては「都大会でベスト8まで行ければ万々歳」といった感じで、広い世界を味わったこともなく、プロは考えてもいなかったです。ポジションは、高校時代はずっとFWでした。
大学は産業能率大学へ進学します。高校の監督が知り合いの方を通じて練習参加の機会を作っていただいたことがきっかけです。ただ、高3の最後はケガしていたのでプレーはできなかったのですが、練習見学していたときの様子を評価していただいたようで(笑)。入学が決まりました。当時、関東大学サッカーリーグの2部でしたが、カテゴリーは全く気にならなかったです。全国から人が集まった中でサッカーをするのは大学が初めてでした。世代別代表の経験者もいて、先輩たちのレベルも高く、初めて外の世界を知りました。1年では公式戦の出場はなかったです。2年になり、少しずつ途中出場ですが、試合にも出始めました。練習は朝の7時から9時ごろまでやっていました。午後は授業もあったので、基本は午前練でしたね。大学では寮に入りました。毎晩22時就寝、朝5時50分起床、外泊が許可されたのは週1回、オフの前日のみでした。寮、練習、授業の日々でしたが、サッカーに集中できた4年間で良かったと思っています。ただ、僕が1年のときに関東大学サッカーリーグ2部から神奈川県リーグに落ちてしまった。4年のときに関東2部に戻したのですが、2年、3年と、昇格決定戦で勝てなくて。しかもその試合も先発ではなく途中出場だったので、悔しいというか、不甲斐ない思いが強かったです。最後の4年も、夏までは出場機会を掴んでいたのですが、夏にJクラブの練習参加したときにケガしてしまい、以降はなかなか大学でも試合に出られず最後を迎えました。周りを見渡しても、J1に入るような選手は大学時代も選抜に入ったり、1年から試合に出ているような選手が多いですが、自分は全くそのような立ち位置ではなかった。逆に言えば、そういう選手でもここにいるというのは、僕としては一つの道標になれると思います。同じような境遇の子どもたち、高校生、大学生の選手たちにも力を与える選手になれるように、これからもっともっと頑張っていきたいと思っています。
-プロ以降-
大学卒業前に何チームか練習参加させていただいた中で、(アスルクラロ)沼津に評価していただき、加入が決まりました。沼津では、働きながらサッカーしていました。アマチュア契約、週5日で午後に仕事をしていました。そこがスタートなので、「早くサッカーだけでお金を稼げるようになりたい」と思っていました。当時、出会ったスポンサー企業の社長の方とは、今でも仲良くさせていただいています。仕事や社会人としての考え方もたくさん学ばせていただきました。1年目の開幕戦でデビューしたのですが、相手がセレッソ大阪U-23でした。試合はあまり覚えていないですが、最後の20分くらいに出て、「こんなに大きいスタジアム(ヤンマースタジアム長居)で試合ができるんだ」と思ったことは覚えています(笑)。当時の沼津には、ゴンさん(中山雅史)もいました。ケガをしていて、別メニューでリハビリされていたので、接する機会は少なかったですが、「FWとして、まず全部のことにトライして、そこから削ぎ落していく作業をしていった方がいいよ」というアドバイスをもらいました。「最初から削って、足していく作業は難しい。1年目は何でもトライして、そこから少しずつ自分に必要なモノを身に付けていった方がいい」と仰っていました。その考えは今でも心に留めています。プレースタイル的にも、ゴンさんはとにかく点を取る選手。自分も“うまい選手”になりたいわけではなく、とにかく点を取れる選手になりたい。執念というか、点を取る技術はもっと磨いていきたいです。沼津での2年目はリーグ戦の全試合に出ることができましたが、先発と途中出場が半々だったので、悔しさの方が大きかった。ただ、その中でもメンタルの波を作らず1年間プレーできたので、少し自信になりました。サッカー選手としてスタートラインに立てた思いはありました。3年目は、開幕からコンスタントに出て、早い段階で7点取れました。「二桁、取れるかな」と思った矢先にケガをしてしまい、1年間、試合に出続けることの難しさ、コンディション調整も含めた大切さを痛感しました。ちなみに、仕事は、1年目はパーソナルトレーニングジムのトレーナーをやっていました。ただ、2年目はコロナの影響でお店が休業し、移転することになったので、そこからは病院の受付と、スポンサー企業の車屋さんで働いていました。昨年の夏、藤枝に移籍するまではずっと働きながらサッカーしていました。沼津で4年目の夏に藤枝へ移籍することになりましたが、沼津での3年半は濃い時間で、そこがあったから今があります。ただ、試合に出てしっかり結果を残すことができなかった悔しさの方が多い3年半でした。チャレンジして成長したい思いもあり、移籍を決めました。藤枝の須藤(大輔)監督には、得点以外にも、前線からの守備を求められて、そこを評価してもらいました。僕がチームに入ったときは主力も決まっていて、点を取る選手も決まっていました。僕はその選手たちをどう生かすか、という役割が主でした。最後はJ2に昇格できて嬉しかった半面、FWとしてはなかなか点を取れなかった半年だったので、悔しい思いもありました。J2に上がった昨季は、セレッソへの移籍が決まるまで、26試合で13点を取ることができました。なぜこんなに取れたのか色んな人に聞かれるのですが、正直、自分でもよく分かりません(笑)。点を取る感覚が研ぎ澄まされたというか、イメージをしっかり形にできたという部分はありますが、外した決定機も多かったので、もっと決めないといけなかったという反省も多いです。そして、昨年7月にセレッソからオファーをいただきました。1年前は全く想像していませんでした(笑)。ただ、日々の積み重ねがそうした結果につながったと思うので、これからも目の前の練習からコツコツ頑張るだけです。セレッソに来て、全ての環境が自分にとっては新鮮でした。クラブハウス、ロッカールーム、筋トレルーム、練習グラウンド、練習後の食事、ミーティング、選手の質、全てが刺激的で、感銘を受けました。それと同時に、この環境に慣れてはいけないと、強く思いました。デビュー戦となったFC東京戦では決定機を外してしまい、FWとしての価値を示せなかった。ただ、それが当時の自分の現在地だったと思うので、しっかり受け止めて、結果が出なかったときこそ、改善すべきことを整理して、次に向けて準備することが大切です。前に向かってチャレンジし続ける考え方は、昔から変わっていません。自分のことは“ポジティブバカ”だと思っています(笑)。今年の目標は、チームが掲げているリーグ優勝です。それが全てで、それしかありません。そこに向けてどれだけ自分が貢献できるか。前線で求められるものは結果です。昨年はレオ(セアラ)が12点を取りましたが、二桁取れる選手がもう1人、2人と出てくれば、攻撃に厚みも生まれます。自分もどんな状況になったとしても、まず二桁を狙います。今年はサッカー人生も懸かっています。ブレることなく自分を信じてプレーし続けること。それが、チームの目標にもつながっていくと思っています。
CAREER
経歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
りょう2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
26.04 背番号のこだわり
サッカーをして初めてもらった番号5 スパイクのこだわり
ミズノモレリアネオIII6 自分のプレーの特徴
スピードを活かしたプレー7 試合前に必ずすること
毛を剃る8 遠征に必ず持っていくもの
西川さんから頂いたポータブルマットレス9 ストレス解消法
1人でドライブ10 サッカーを始めた年齢
6歳11 サッカーを始めたきっかけ
友人がやってたのを見て羨ましくてつい12 影響を受けた指導者
全員13 仲の良い選手(チームメイトでも他クラブでも可)/理由
舩木翔、進藤亮佑、長沢裕弥、徳永晃太郎/なんか合う14 チームメートの意外な一面/内容
平野佑一/ごっつい一発ギャグをいきなりやる15 サッカーで一番大切にしていること
自分の限界をつくらない16 今季対戦が楽しみなチーム/理由
全チーム/どこも強いから17 今までで一番嬉しかった試合
昨年の9/2(土)川崎フロンターレ戦18 今までで一番悔しかった試合
負けた試合全部19 将来の夢(サッカー面)
日本代表20 もしサッカー選手じゃなかったら
社長秘書21 あなたにとってサッカーとは
仕事22 今季の目標(サッカー目標)
リーグ優勝23 セレッソ大阪の好きなところ
明るい、雰囲気が良い24 セレッソ大阪のイメージ
まっぴんく25 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ
距離がめちゃくちゃ近い26 どんな応援をされると嬉しい?
どんな応援でもそれぞれのスタイルで応援をしていただければそれだけで嬉しい27 おすすめの地元飯
手打そば かわしま28 自分の性格を一言で!
めちゃくちゃイージー29 自分の一風変わったくせ
髪の毛の乱れを直すのに頭ブンブンて振るとこ30 生きていて1番ワクワクする瞬間
点取った瞬間31 生まれ変わったら何になりたい?
歌手32 座右の銘、好きな言葉
神は細部に宿る33 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)
清水翔太34 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)
HITOMIN35 好きな女性のタイプ
妻36 好きな女性の髪型はショート派?ロング派?
どちらでも37 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
十字架のろくにん38 好きな映画のジャンル
洋画邦画どちらも39 好きな音楽のジャンル
色んなのが好きです40 苦手な食べ物
ゴーヤ、セロリ、苦味の強いもの41 この世で一番好きなもの
きゅうりの浅漬け42 この世で一番怖いもの
怒った時の妻(冗談です)43 今一番会ってみたい人
ご先祖様44 今一番欲しいもの
英会話力45 最近嬉しかったこと
カタコトの英語が通じたこと46 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
外遊び47 誕生日にもらって嬉しかったもの
全部(その気持ちがまず嬉しい)48 ほっとする瞬間
練習終わりのお風呂に浸かった時49 いつもつけている香水(銘柄等)
当ててみてください50 今季の目標(プライベート)
体調を壊さない51 ファン・サポーターへひと言
みんなで桜満開にしましょう